0710 意見とかコミュニケーションとか

戻って参りましたジャパン!
時差ぼけに苛まれつつ、ちょろちょろと動き出しました。

さてさて、日本では参院選に伴い、激論があれこれ飛び交っています。
政治という正解も不正解もないナマモノに対して、各々が自分たちの未来のために、と一生懸命考え意見を言い合う。
それ自体素晴らしい事だとは思いつつ、ん?と違和感を感じる記事やコメントを読むと、どうしても眉間にシワが寄ってしまい。
じゃあどういうものに違和感を感じるかと考えてみたら、
それはどの政党がどうというのではなくて、意見の述べ方についてのことで、
○○は○○だからこの先○○になる、と一方的断定的にものを言い、異論を受け付けない、と(少なくとも私が、読み手として)感じてしまうもの。問題提起するということはどうしてもこの構成になるのかもしれないけれど、イコール排他的になってしまうものかなあとムっとしてしまったり。
ただそのことを考えていくと、自分のいる分野に大きく関わるテーマに立ち返ってきて。
最近こういうことに言及するのはやめようとしていたのだけれど、自分をよく知ってくれている友達に「穏やかにやり過ごそうとするのはヨリコらしくない」たることを言われた(思わず笑った)ので、そっとぼんやりまとめてみます。
(長々だらだらになっちゃうので、全国に2人か3人ほどいるかもしれない読者の方々、けして無理して読まないでね)

前述のとおり、政治において(もとい全ての行動において)の正解なんて誰にもわからなくて、全ては結果その後の歴史しか物語れない。そして「知る」努力をするということはとても大事だけれど、関わる人の数に比例した見解と出来事があって、その全ての要素を理解するということも限りなく不可能に近いとも思っています。
なので自分が正しい、ではなくて、自分はこう考える、だからこう選択する。という姿勢が大前提にあることが大事なんだと思う。
例えばそれが「わからない」という結論でも、「何も選択しないという選択」でも、真っ当だし尊いことだとも思う。(だから、投票率の低さ=投票しない人は関心がない、というだけではないのではとも思うんです。)
ただ、意見を持つことと、それを他人に伝えることのバランスは常に常に難しくて。
異なる考えを持つ同士でも、互いが望んで話をしあうことは必要だし、人に影響を受け自分の考えが変わることも当然なこと。
問題は、「述べる、伝える」と「押し付ける」の境界線、
「対話」と「主張」の境界線。
どんな考えを持つのもその人の自由、
ただ、自分の意見を公共の場で述べる以上は、そうではない意見を受け入れるスペースを持っておくべきだ。
それを受け付けないのなら人前で発表するべきではないと思います。

この「自分の望まない反応が返ってきた時にどう受け止めるか」という問いは、公共の場でプロジェクトをやる上で常に出てくることで。
どうしても何かする以上自分の期待する反応、肯定と賛同を求めてしまう。そうすると、そうでないものを排除、無視してしまう危険は常にそこにあって。
幸いなことに私は今までの活動で、激しく否定的だったり予想を反する反応を受けたことはあまり無いのだけれど、思い出すのは大学の課題のひとつ、近くの病院に入院する患者さんを励ますためのプロジェクトというものに取り組んだ時。
宇宙服を着込み「we are travellers(みんな旅人)」とかいた旗を持って写真を撮り、病院の時間も人生の旅の一環だと思ったら次の目的地について前向きになれるかも、というコンセプトにしたら、一患者さんから「おまえに何がわかる。行きたい場所は、事故が起きる前の瞬間だ」と言われ、激しく落ち込みました。もっともな意見でありなんとデリカシーがなかったのだろうと猛反省したのだけれど、プロジェクト自体を見直すこととは別に、この反応をアウトプットに取り込むべきか否かで悩んだのを覚えています。
ただ、とあるパフォーマンスアーティストの女性が、悪い結果に終わったことはない、なぜならどんな反応もacceptableだからと言っていたのを聞いて、そうか、そう捉えれば確かに悪い結果はないなとはっとしました。公共の場で自分の意志で行動するというのはそうであるべきなんだなと。
在学中のわたしは、公共圏で何かして通行人に参加してもらうプロジェクトに熱中していました。その時、自分はきっかけを作りたいけどそれを人に強要したいのではなく、人々の反応を中立的にobserveしたいと発表し、そうしたら先生から、中立的な立場になんて誰も決してなれない。君のやっていることは間違いなくpoliticalな強要だと言われてガーンとなったのだけれど、よくよく考えたらそうだなあと。意志を持って何らかのアクションを行い、それが誰かと関わり影響を及ぼす可能性のある限り、それはpoliticalであるという事実を否定しても仕方ないなと思いました。
ただ大事なことは、ポリティカルか否か、ということじゃなく、
自分の期待する反応以外のものが出た時にどう受け止めるか。
なかったことにし、自分の求める反応だけを記録し発表していくほうがずっとまとめやすいけれど、その場合それは表現というまでで、「対話:コミュニケーション」がしたいのではない、と認める必要があるんだなと強く感じました。
ポイントは、主張することがいけない、ということではなく、
その場合対話をしているのではない、と自覚したほうが良いということです。
コミュニケーションなんて言葉は他人と共存する限りどんな分野でも誰もが使うもので、声高々に言うには当たり前すぎるワードだとも思う。
でもわたしが現在自分の分野を「コミュニケーションアート」という理由は、
何か特別なことを生み出すというより、単に自分のやっていることが人無しでは成り立たない、かつ、プロジェクトを通して人と関わり合いたいから。そのことで自分が成長したいとも思っているから。
でもそう名乗るからこそ、今回改めて考えたことを忘れてはいけないなと改めて思いました。
そしてくれぐれも、自分の行動で誰かの価値観や考えを多かれ少なかれ変えうるということは、責任大なことだと自覚しておく必要があるなと。

ただ一方で、その前提を持ちアクションをするのには自分自身が冷静な精神状況にいなくてはいけなくて、
誰しもトピックスが自分ごとだと強い感情にならざるを得ないのかもなあとも感じます。
他人事だと遠い分、中立的にものを見れるのは当然。お国ごとは特に難しい。
例えばイギリスEU離脱問題が話題だけれど、正直どちらにするべきか、今の私には意見を持つことすら出来ない。でも滞在中出会った敬愛する2人のイギリス人女性が、それぞれ違う方に投票していた。
EUに残る方を選んだ人は、色々理由はあるけれど、何よりもまずロンドンに住むヨーロッパの人々との出会いが私の人生をとても豊かにさせ、自分の子供も多種多様な環境の中で育っていって欲しいと思う、と言っていて。
反対の離脱を選んだ人は、外から短期で来る人間は大歓迎けれど、この国の移民状況は、自分の家に知らない赤の他人がずっと住んでいて、会話も交わさない、刃物を持っているかもわからない、なのにその人の生活費を負担しているようなものだ、と言っていて。
どちらの考えも理解できて、どちらが多数派に転んでも頷けると思った。イギリスが結果どちらを選択しても、それについて賛成反対することは私はできないなあと。

海外で少し暮らして出た結論は、個人と国籍は切り離せないということ。異なる民族、宗教、環境を持つ人の考えが理解できるとは何があっても言えないなということ。ネガティヴではなく、人類みな兄弟とは決して言えなくて。自分の身を守る装備を用意するということは、相手を信頼しないということではなく、自己管理なんだと思う。そして時代が変わるにつれ、その自己管理の必要レベルも形も変わっていくものなんだとも思います。
ただこれはあくまで私一個人の現在の考え。これに即さない人の意見を聞いたら、それを無意識のうちに頭から否定したりしないだろうか。
「わかっていない」と相手を見下したりしないだろうか?
ああ難しいなあ。難しい。ね!職業によって、役割は違うことだし。ううむ。。
でも、とにかくこのトピックスは心に常に止めておくようにしよう、と今回改めて思いましたとさ。
なんだか赤裸々で恥ずかしい文章だけれど、現在の記録として残しておこう。
(常に、常に反省だらけだけど!)
ところでところで、はいところで!
所変わって、来週から一ヶ月ほど、新潟県十日町に滞在します。とても大きな、嬉しいプロジェクトの始動です。
詳細はまたのちほど。ツヅク!

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